写真で見る東レ滋賀ボート部60年史
1970年~1979年 (昭和45年-54年)
国内王者、世界への門戸を開く
不況のため定期採用が途切れ、漕ぎ手が4人だけだった時代から、一気にエイトが組めるまでメンバーが増強された時代。70年代の幕開けにふさわしく、2月には念願のエイト「大淡海(おおおうみ)」が進水した。
このころの日本ボート界では、小艇主義による強化策を探っていたため、「東レ滋賀」もフォア2クルーでの猛烈な練習に耐えていた。その結果、恐ろしく速いクルーに成長していくこととなる。1972年8月27日、過去49年間、大学クルーの天下であった全日本エイトのチャンピオンにおいて、社会人の「東レ滋賀」が史上初の快挙を達成。フォアを合体して挑んだ試合だった。
単独での世界選手権派遣など海外での活躍を含め、後の時代になって「黄金期」と称されることになる。
1970 |
第48回 全日本選手権大会 舵手付きフォア 4連覇 日本漕艇協会が初めて小艇主義を打ち出した最初の全日本選手権。カナダで行われる世界選手権の代表選考も兼ねて開催。結果は、「東レ滋賀」が予想通り圧倒的な強さを発揮し、大会史上初の4連勝、Bクルーも4位入賞を飾った。
Aクルー |
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昭和45年度 関西選手権大会 エイト 初優勝
2月に進水した「大淡海」で初めて試合に挑んで初優勝を飾った。試合直前までフォアに分かれての練習だったせいか、身体の動きはバラバラ。見るからに下手なエイトであったが、非常に豪快で、その艇速は日本一速かった。 |
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第3回 世界漕艇選手権大会 舵手付きフォア 「東レ滋賀」単独クルーで出場
オンタリオ湖に流れ込むセントキャサリンにある運河がボートコース。予選は東独、ソ連、イギリス、イタリアが相手で最下位。敗者復活では、日本最高タイムも及ばず、最下位。準決勝進出の夢は破れた。 |
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1971 |
第56回 ヨーロッパ漕艇選手権大会 舵手付きフォア出場
全日本選手権5連覇の勢いで乗り込んだヨーロッパ漕艇選手権大会。しかしながら、結果は惨敗。「東レ滋賀」選手団として初めて揃いのブレザーとスラックスを新調したのも、この遠征からだった。 |
1972 |
第50回 全日本選手権大会 エイト 初優勝
国内最強フォアのA・Bクルーを合体させた急づくりのエイトであったが、追従してくる他の艇はどこにもなかった。50年目にして初めて大学生から社会人にエイト優勝が移行した、日本ボート史上に残る快挙である |
1973 |
第57回 ヨーロッパ漕艇選手権大会 舵手付きフォア、シングルスカル 出場
「東レ滋賀」から舵手付きフォアとシングルスカルが日本代表として参加。翌年のスイス遠征と次期モントリオール五輪に最強のエイトで臨むことを念頭に挑んだが、日本ボート界最後の舵手付きフォアでの遠征となった。 |
1974 |
第52回 日本選手権大会 2種目制覇
エイトのレースは序盤から「東レ滋賀」がリード。ゴールでは2位「日本大学」に6秒の大差をつけ、前年優勝した3位の「同志社大学」も制し、優勝。ダブルスカルで初優勝も飾り、2種目を制覇した。 |
朝日レガッタ 舵手付きフォア 荒天により沈没し、14連覇ならず |
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第4回 世界漕艇選手権大会 エイト 出場
選考会で1位・2位を独占した「東レ滋賀」のフォア2クルー10名と、「明治大学」「福島大学」からの各1名による代表選手。結果は予選、敗者復活敗退で世界との差をまざまざと見せ付けられた。優勝はアメリカ。 |
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1978 |
第31回 朝日レガッタ エイト 初優勝
新入部員2名を入れて、2年ぶりのエイト編成。わずか1ヶ月余りの練習で、予選から終始最高タイムを叩き出し、決勝では「日本大」「早稲田大」に1艇身以上の大差で初優勝。新人は、デビュー戦でいきなり朝日レガッタの頂点に立った。 |