写真で見る東レ滋賀ボート部60年史
1980年~1989年 (昭和55年-平成元年)
再生から新たな飛躍へ
1980年、ベテランが一挙に引退した中、若手主体でクルーの強化を図り、翌年滋賀で行われた国体では優勝を果たす。しかしながら、しばらくは厳しい年が続くこととなった。
その後、経験豊富な大学卒、強力な高卒メンバーが入社。個性あるメンバーの歯車が上手くかみ合い、新たなトレーニング方法も導入。それが軽量級エイトでの世界選手権出場や、全日本での2連覇達成につながった。
1986年のソウルアジア大会には、国内史上最高タイムを叩き出した「東レ滋賀」単独のエイトクルーにて出場を決定。本線では銀メダルを獲得し、「東レ滋賀ボート部」の再建を果たした。アジアでの活躍、オリンピックへの出場を果たした年代である。
1981 |
第34回 朝日レガッタ 舵手付きフォア 優勝
1970年代に活躍した選手の多くが引退した世代交代の時代。一時は引退をしたベテランの北井が復活し、若手選手を導いて勝ち取った優勝(通算18度目)であった。 |
---|---|
第36回 国民体育大会 舵手付きフォア 優勝
前年度の覇者「トヨタ自動車」と競り合い、トップボール差で勝ち取った執念の優勝。最終レースでの写真判定結果が場内にアナウンスされ、漕艇競技総合優勝が決まった瞬間、琵琶湖の湖面が揺れるほどの大歓声が上がった。 |
|
1984 |
第6回 全日本軽量級選手権大会 2種目制覇
エイトでは、キャプテン八木の工夫と指導で上手く体重を調整し、初優勝を果たした。また、シングルスカル(堀内俊介)では3連覇を達成。2種目を制覇した。 |
世界漕艇選手権大会 軽量級エイト 出場
1974年の世界選手権にエイトで出場して以来、国内予選を勝ち抜いて「東レ滋賀」(大艇種目)単独クルーで世界進出を果たした。また、同年開催されたロサンゼルスオリンピックには、堀内俊介がシングルスカルで出場した。 |
|
1985 |
第63回 全日本選手権大会 エイト 9年ぶり 優勝
快晴・無風のコンディションの中、タイムは6分を切り、歴代2位の素晴らしい好記録であった。通算4度目の優勝。 |
1986 |
第64回 全日本選手権大会 エイト 2連覇
1000mで2位「中央大」に1艇身差をつけ、後半の追い上げを振り切りゴール。タイムは、6分4秒58と、他の追随を許さぬ圧倒的強さを見せ付けた!前年に続きエイト2連覇を達成。通算5度目となる。 |
アジア大会派遣選考会 エイト 優勝
5分50秒を切った国内史上最高タイムでの勝利は、2位と3艇身近くの差を付けてのゴールとなった。「東レ滋賀」が、エイト単独クルーとして日本代表に決定した瞬間である。 |
|
第10回 アジア競技大会 エイト 出場 1986年のソウルアジア大会は、韓国・渼沙里(ミサリ)漕艇場で開催。「東レ滋賀」単独クルーとしてエイトに出場した。結果は、強敵の中国にわずかに届かず、2位(銀メダル)の成績であった。 |
|
1988 |
第24回 オリンピック エイト 出場
日本漕艇協会は、ソウルオリンピックに各チームから漕力の高い選手を選抜し、日本代表のエイトクルーを編成して派遣。この年以降は、毎年、選抜クルーを編成し、国際大会に派遣することが定着化した。 |
1989 |
第11回 全日本軽量級選手権大会 2種目制覇
舵手無しフォアのメンバーは、ベテランの八木と石田、シングルスカラーの丹野、若手の田中。大会直前に編成したクルーであったが、力と意識を上手く一致させ、初優勝を勝ち取った。シングルスカルとともに2種目での優勝。 |
全国エルゴ大会 米国コンセプト社が発売した「エルゴメーター」が世界的に普及。当部は先駆けて導入し、トレーニングマシン、各選手の漕力の測定装置として活用した。この年より、日本漕艇協会主催の「全国エルゴ大会」も開催。各選手のタイム(漕力)がランキングで公開され、競合チームとの戦力比較や有望新人の発掘に使われた。 |